武田国信関連エントリー

足利義尚・近江鈎の陣~甲賀衆の奇襲作戦

... 義尚のもとには、 若狭 (福井県南部) の 武田国信 、 加賀 (石川県南部) の 富樫政親 (とがしまさちか) といった有力武将が集まり、その数は2万の大軍となります。 義尚の軍は、近江南部にある六角氏の砦を次々と落とし、やがて ...

足利義尚・近江鈎の陣~甲賀衆の奇襲作戦

尼子国久(改)

... そのため、この戦いが事実であるとしても、武田国信が但馬山名方についたとみられる天文14年(1545)以降に起こったものであると考えなければなりません。「佐々木系図」では豊久の死を天文16年(1547)6月としているため ...

尼子国久(改)

武田国信とは?

武田 国信(たけだ くにのぶ)
若狭国守護。室町時代中期の武将。
因幡国鳥取城主。戦国時代 (日本) 戦国時代前期の武将。
武田国信(嘉吉2年(1442年) - 延徳2年6月21日 (旧暦) 6月21日(1490年7月8日))は武田氏#若狭武田氏 若狭武田氏の第三代当主。武田氏#安芸武田氏 安芸武田氏の武田信繁の三男で、武田信栄や武田信賢の弟。四代当主武田信親・五代当主武田元信の父。
1471年(文明2年)兄の信賢の死去後、武田氏の家督を継ぐ。信賢に嫡子はいたが、幼少であったため、国信が家督を継ぐこととなる。
応仁の乱では兄の信賢同様に細川勝元の東軍に属して、土岐成頼らの西軍と戦うなど奮戦している。しかし弟武田元綱 元網の離反にも遭うなど苦戦も強いられている。

武田国信の詳細